bullionとは?
金塊、金地金。純度99.5%以上の金のバー、鋳塊。 不動産投資は、(摂政スティリコに操られた)皇帝ホノリウスのもとで一時的な安定期を迎えるも、408年にスティリコが死ぬと、その期間も終わった。それから2つに分かれた帝国は、文字通り別々の道を歩んだ。東ローマがゆっくりと建て直しに入って地固めを進めていったとき、西ローマは完全にばらばらになろうとしていた。 ローマ帝国への蛮族の侵入経路上述の通り、既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマが経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。 ワラントの農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前よりも、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ崩壊の伏線となったのである。古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマの諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。 くりっく365は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。 これはすなわち、不幸にして、東ローマによる西ローマの建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。 外為、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを押さえていた東ローマは、とりわけコンスタンティヌス大帝やコンスタンティウス2世のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。 408年にスティリコが没すると、ホノリウス帝が親政を執り、423年に没するまで帝位に就いていたものの、その治世は蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入と帝位簒奪者とが相次いだ。410年に、紀元前4世紀のガリア人の侵入以来、初めてローマが掠奪される。西ローマ帝国において、簒奪者たちによって一貫して引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなり、5世紀になると蛮族が帝位簒奪者に成り果てた。475年には、かつてアッティラの腹心だったオレステスが、ユリウス・ネポス帝をラヴェンナから追放し、わが子ロムルス・アウグストゥルス(正式にはロムルス・アウグストゥス。アウグストゥルスは小アウグストゥスの意)が皇帝であると宣言したのである。 外為に描かれたネポス帝いくつかの孤立地帯において西ローマ帝国の支配が続いたものの(例:執政官シアグリウス支配下のガリア北西部、アウレリウス・アンブロシウス支配下のブリタニア)、西ローマ全域における帝国の支配権はとうに失われていた。476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害、ロムルス・アウグストゥルス帝を退位させて帝位のしるしをコンスタンティノポリスの東帝ゼノンのところに送り返し、自らはゼノン帝の宗主権の下のイタリア王として立った。 トレミシス金貨に描かれたロムルス・アウグストゥルス帝一般には、西ローマ帝国は、476年9月4日にオドアケルがロムルス・アウグストゥルス帝を廃した時に滅んだとする。しかしながら、事態はそう簡単でも明瞭でもないのである。 オレステスによって追放されたユリウス・ネポス帝は、まだダルマチアの西ローマ帝国の残存領土を支配しており、引き続き西ローマ帝国全体の統治権の保持を宣言していた。ネポスは、東帝ゼノンや、ガリアにおけるソワソン管区(西ローマ帝国の飛び地)の維持に腐心していた将軍シアグリウスからも、正当なる西帝として認知されていた。オドアケルは自らをイタリアの支配者と宣言し、東帝ゼノンと交渉を始めた。ゼノンは結局オドアケルをローマ帝国のパトリキとして認め、イタリアの副王として受け入れたが、オドアケルがネポスを西帝として公式に承認すべきだとも主張した。オドアケルは譲歩して、ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは主権を決してネポスに返さなかったからである。ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を征服してしまう。 シアグリスも486年にフランク族に敗れるまで、ガリア北部でネポス帝の名で貨幣を鋳造した。しかしながら、一般の西洋史ではユリウス・ネポスはたいてい忘れられており、ロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及されるに過ぎない。 西ローマ帝国の廃墟の中から振興した東ゴート王国の領地ローマ帝国再統一の最後の希望は493年に訪れた。この年オドアケルが、テオドリック大王に掃討されたからである。テオドリックは、帝国の西側、特にローマ市を征服すべく、東ローマ皇帝ゼノンに徴募されていた。テオドリックは東ローマ皇帝に従属し、その副王に任ぜられていた。しかし政治的には自立していた。 テオドリックが526年に没したとき、西ローマはもはや東ローマとは別物になっていた。西側はすっかり蛮族が群雄割拠する地となったのに対して、東ローマは蛮族を斥けてギリシャ化していった。東ローマはその後たびたび西ローマの遺領を征服し直そうと努めたが、往年のローマ帝国の版図を再現するには至らなかった。 テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割されるようになった。 ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されたが、コンスタンティヌス1世が337年に死去すると、3人の息子たちの間で内乱が勃発し、帝国を3分割することになった。西ローマは340年に再統一され、帝国全土の再統一は、353年にコンスタンティウス2世によって果たされた。 コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマに集中させたので、最初の東ローマ皇帝と見なされることもある。その支配のもとで、コンスタンティヌス1世によって新たな首都とされたばかりのコンスタンティノポリス(もとのビュザンティオン)は、ローマ帝国の首都として完全に整備された。 361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが即位した。ユリアヌスが、先帝のサーサーン朝ペルシアとの対戦を継続中に363年に戦死すると、ヨウィアヌスがその後を襲ったが、その治世は364年までしか続かなかった。 皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟ウァレンスに譲った。東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、異教徒が引き起こす政治的な反撥であった。379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。